工芸的絵画


   嘗て「絵画論」に於いて論じた所と重複する個所もあるが、もう一度

  工芸的性質を有つ絵画に就いて、私の考えを述べたく筆を執ったのであ

  る。この題材は世論を喚起するに足りる充分な内容があろう。兎も角

  在来の絵画論へは修正の必要がもう迫って来たと思える。若しも因襲か

  らではなしに、活々と直観に戻り得たら、絵画への見方も一つの出直し

  をするであろう。


   一

 兎も角私は工芸的な絵画が好きなのである。好きな絵は皆どこかに工芸的

性質がある。私はこのような言葉を強ち一個の嗜好から述べているとは思わ

ない。又何か特別な理論からかかる主張を築き上げているのでもない。物を

前に見て事実を率直に述べているに過ぎない。だから進んでこうも云いたい。

凡ての美しい絵はどこか工芸的であると。又は工芸的な美しさに達していな

い絵は、未だ充分に美しくはないのだと。


   二

 工芸性とものの美しさとには密接な関係がある。この真理は未だ明確に説

かれたことがない。気付いている人達はあっても、美術より下位にあると思

える工芸から、美の性質を判くことに躊躇を感じるに違いない。工芸をこそ

美術から批判してよいというのが習慣である。工芸品を見るとそれがどれだ

け美術的であるかをすぐ考える。逆に美術を見てそれがどれだけ工芸的であ

るかを考えはしない。だから「美術的」という言葉は美の軽重を計る標的で

さえある。かかる場合「工芸的」とは誰も云わない。工芸家でさえ「工芸美

術」を目当とする。単に工芸品を作ることには逡巡を感じる。まして美術を

工芸的なものにしようとする者はない。考えられないことだからである。

 だから私の提案も大方は無謀なもの無理なものと取られるであろう。だが

そう取るのは何か考えに捕われている所がありはしまいか。果たして物をぢ

かに見ての言葉であろうか。私の眼はそのことを許さない。物は私にこう告

げる。凡ての絵画は工芸的な性質に高められて始めて美しくなるのだと。


   三

 一本の樹を描くとしよう。かなう限り似せて描けば、よき絵と普通は云わ

れよう。忠実な描写は真を伝えるための、正しい道だと思えるからである。

だが形や色をそのまま外から模してそれでよい絵になろうか。絵は進んで樹

をもっと絵にする必要がある。樹の絵ではなく、絵の樹にせねばならぬ。樹

とその絵とは異ならねばならぬ。描くとは樹をもっと樹にする意味である。

謂わば樹を絵に煮つめることである。だから樹を見る時より、絵でもっとよ

く樹を見せねばならぬ。かかる意味で写実に止まるものは絵に高まったもの

とは云えぬ。よき絵は樹を写さずして而も樹を示してくれる。自然の樹を見

ても見えない樹さえ見せてくれる。かかる意味でよき絵には樹よりもっと樹

らしい樹が潜む。私はかかる絵を工芸的な絵と呼ぼう。そう呼ぶ方が至当で

はないか。

 なぜならこの時、樹の絵は模様に煮つまってくるからである。凡ての無駄

が省け、なくてはならないものだけが残る。そこにはいつも不用なものへの

省略があり、入用なものへの強調が伴う。是こそ模様の性質ではないか。そ

れは写実を越えた真実である。この場合、誇張は虚偽ではなく真実なものの

表現である。よい模様は何等かの意味でよい誇張である。だからグロテスク

の要素を帯びる。樹の絵が模様に入って始めて絵の樹に高まる。よき絵とよ

き模様とは一つに結ばる。


   四

 模様は単純化せられた絵とも云える。絵が納まる所に納まった姿である。

模様はここで型にまで達する。型とは一定の法である。ものが本に帰る時型

が現れてくる。だから模様は法の絵だとも云える。逆に云えば絵は法に達し

て模様に変わる。型は熟さずば、模様に成り切った絵とは云えぬ。それなら

模様に迫る絵を工芸的な絵と呼んでよいではないか。工芸性に入らずして、

ものは模様とならない。模様は工芸的なるものの姿だとも云える。絵はこの

域に達して益々美しい。なぜなら模様は絵の結晶した姿とも云えるからであ

る。かかる意味で模様より絵らしい絵はない筈である。どんな絵も模様の域

に入って更に絵になる。


   五

 歴史を省みると早くも中世に戻ればこの性質は著しい。更に昔に帰れば、

凡ての絵は模様であったとも云える。漢代や六朝、又はビザンチンやロマネ

スクの絵画、凡てはこの事実を示すではないか。彫刻だって悉く模様的であっ

た。それ等の時代に醜い作が殆ど見当たらぬのは何を語るか。只古いから美

しいとは考えられぬ。ものが工芸的であったからではないであろうか。美術

が未だ発生していなかったからと説いてよくはないか。それ等の時代は未だ

工芸時代であった。美術が工芸から独立したのは近世の出来事である。

 不思議であるが美術時代に来ると、美しいものと醜いものとのけじめが激

しくなる。それは工芸的な要素が甦るものと亡びるものとが出来たからと説

いてよい。この時工芸の領域にも醜いものが夥しくなった。それは工芸が逆

に美術に媚びた結果だと云ってよくはないか。工芸が本来の立場を守らなかっ

たことに因りはしないか。振り返ると美しい絵画は、美術的に美しいと呼ぶ

より工芸的に美しいという方がもっと至当である。美術的という言葉より工

芸的という言葉の方が、もっと正しくものの美しさを解いてくれる。美術的

という標準は個人主義的時代の当然な産物だったというに過ぎなくはないか。

だが美術を工芸から分離させたことは果して正しい処置であったか。本来一

つであったものを強いて分けたことに罪がありはしまいか。再び工芸との結

合こそ美術の求める道ではないか。この分離は工芸にとっても悲劇であった。


   六

 今の画家達は次のようなことをどう考えてくれるであろうか。絵は一人で

描くものと誰もいう。絵は自分の道であって他人の仕事ではない。天才は何

人の制肘をも受けてはならない。個性を離れた絵画は哀れな存在に過ぎない。

最も個性的な絵こそ近代的な絵である。だから絵画はどこまでも個人の仕事

である。個性が明確であればあるほど、彼の作物は冴える。そう今は誰も想

う。

 だが二人で一緒に仕事が出来ぬものであろうか。二人と云わず、三人四人

で共に一つの絵に働けぬものか。大勢の人が集まって、よい作物は産めない

ものか。大勢であってこそ生まれる絵がありはしないか。若し互いに志を合

わせて一枚の絵が描けたら、有難いことではないか。一人からで無くば描け

ず、一人だから描けるということは、自然な成行きだろうか。一人でなけれ

ば出ない美もあろう。それなら同じように力を協せずば出ない絵が更にあろ

う。そうしてかかる絵の方が大きな意味を含みはしまいか。こんなことを真

面目に信ずる者は、狂者だとも取られよう。だが絵画を只個性の所産に止め

ることが果たして正しいことか。若し協存の理念が高まる時が来たら、一人

でなければ歩めない道が一番讃美されるだろうか。


   七

 私がこのことを云い出すのは、工芸的なものは多く協同体の現れだと云え

るからである。少なくとも協同的な仕事になる時、ものが必然に工芸性を帯

びてくることを指摘出来よう。近代では「分業」という言葉で是を説くかも

知れぬが、「業を分つ」というより「業を合せる」と見る方が至当である。

最も美しい工芸品はこの合業から来ている。工芸本来の性質がそのことを招

くのである。その結果工芸的なものは必然に非個人的な性質を帯びる。個人

が支えるのではなく、多くの力が交わるからである。

 だから無銘である。一人の天才の所業ということが出来ぬ。かかるものを

作る者は多く、誰がどこでどう作ろうと、大方は同じ度の美しさに達し得た

のである。だから光るものは非個人的な美しさである。なべて工芸的なもの

にはこの性質が多い。個人の仕事にとどまるなら未だ充分に工芸的なものに

達していない証拠とも云える。元来工芸の道は個人の道ではない。だから工

芸的なものは非個人的な美しさへと入ってゆく。

 ここで何も凡ての個人的な作が醜いというのではない。併しその美しさが

深まれば非個人的なものに高まってゆく。その時、絵が必然に工芸性を帯び

てくる。非個人性と工芸性とには密接な関係がある。今の作家達はこの真理

を見逃してはいないであろうか。


   八

 又次のような道を考えてくれる画家達はいないものか。個人の自由を讃え

る近代では絵を描くのにあやゆる束縛を嫌った。何をどう描こうと個人の自

由であるという。この自由なくして美しい絵はあり得ない。美術の道はこの

主張から発した。だがこの道が果たして美しさに導く唯一の道であり、又最

後の道かどうか。又は是が凡ての人の歩んでよい又歩める道かどうか。こう

いう反省は絵画の将来にとって極めて大切な意味があろう。

 何をどう描こうと自由だが、自由に描いても必ずしも美しくはならぬ。自

由を活かし切ることは並大抵のことではない。自由に振舞って過たない画家

がどれだけあったろうか。だから道は限られた天才だけのものになって了う。

だが天才すら如何に度々この自由のために歩みそこなったことか。近代の作

で醜いものが夥しくなったのは、自由の濫用が将ち来した避け難い結果では

なかったか。自由が乏しかったという昔に、醜いものが却って少ないのをど

う考えたらよいか。ここで自由は峻しい坂路だと知れる。

 そうなら別に坦々たる道、平な幅広い安全な道が考えられてよい。その方

が本通りではないのか。昔の優れた絵は大概この道で描かれたと思える。こ

こでは自由ではなく却って秩序が力になる。何をどう描いてもよいというこ

とも幸福ではあろうが、こう描けば美しくなるという法があったら、尚幸い

ではないか。法は必然さであるから、それに則れば過ちはない。この法に便

ることで絵を描いたらどうか。自分が勝手に描くのではなく、法に従って描

くのである。法を破ることに自由を感じるのではなく、法に即して自由を得

るのである。ここでは服従より大きな自由はない。丁度定石に則って碁が滑

らかに運ぶのと同じである。定石を知らずば、結局ぎこちない石より打てな

いではないか。


   九

 そんな法が果たして何処に在るかを聞く人があろう。だが法が見出せない

のは美術家として自由を言い張るからではないか。若し工芸人として道を省

みるなら、法なくして工芸の道はあり得ないのをしみじみと悟るであろう。

工芸的な美とは法の美をいうのである。或は法に対する時、ものが工芸的性

質を帯びてくると云ってもよい。工芸的な作物を見ると、法に基づく描き方

が著しいのに気付くではないか。ここで法を型と呼んでもよい。絵が一定の

型に達し、それを守って描いてゆく。仕事が熟さずばこの型には達しない。

昔は宗教画の場合のように題材にすら規定があった。それのみではない。描

き方にも法が流れた。人を描くなら眼や口や耳に、自然を写すなら樹や河や

山に或る型があった。その組み合わせから一つの絵が完成される。見ように

よってはこんな拘束はない。だがこの拘束の中から素晴らしい絵が生まれた。

様式による作物、建築から彫刻、絵画から器物に至るまで実例は甚だ多い。

あの漢画として最も美しい彩篋の絵漆は全く型の絵ではないか。三墓里の四

神、法隆寺の壁画、六朝の彫刻、ロマネスクの聖像、十五世紀の木版挿絵、

一つとして法の作物でないものはない。なぜ殆どそれ等の作物に醜いものが

あり得なかったか。式に則るから誤りが少ないのである。法に従う限り誰に

も許された道であった。それ等の作物を天才の作だと見做すのは、工人達へ

の侮辱である。工人のままに見事な作が産めたのである。万一彼等が醜い作

を作ったなら、それは型を疎んじたか又はそれを誤り伝えた場合に限る。法

は個人を越える。法による作物が非個人的性質に帰るのは必然である。自由

の上に立つものは個人に活き、法に依るものは個人を越える。古作品に伝統

が主要な役割を勤めたのは当然であった。個人的なものにも美しさはある。

だが個人を越えたものは結局もっと美しい。だから最も美しいものはどこか

工芸的な所がある。


   十

 ここで私は民画の性質に就いて幾許かの言葉を費そう。民衆から生まれ民

衆のために描かれ民衆によって購われる絵画を民画と呼ぼう。それは一つの

典型的な工芸的絵画である。(例えば大津絵や、小絵馬や、又泥絵の如き絵

に最もよい実例を見られるであろう)。なぜ民画が工芸的美しさを有つに至

るか。第一それは個人に所属する絵ではない。描く者は無名の画工である。

もともと個性の表現など志す彼等ではない。だから天才のいない世界だとも

云える。画工は一人ではない。類した工人達は大勢いたのである。一枚の絵

に家族の者達さえ手伝ったであろう。事に慣れれば誰でも携わり得た仕事で

あった。それのみではない。画題さえ一定のものに決まっているのである。

だから同じ絵を繰り返して描く。なぜこんな平凡な事情からよく美しい絵が

生まれるのか。結局仕事が型に納まるからである。彼等は貧しくとも、法に

支えられる彼等に過ちは少ない。絵が充分民画に成り切れば、そこに醜い絵

はあり得ない。最も安全な道で描いているからである。若し醜いものがあれ

ば、寧ろ法に叛いて自由に振舞った罪による。民画に於いて画工達は謙遜で

ある。もともと渡世の業として描いているに過ぎぬ。美のために描くが如き

自負心はない。だから下品の絵と謗られはするが、却ってこのことが作者か

ら忘念を取り去るともいえよう。民画はこの世で最も罪の少ない絵である。

だから美しくなるような事情のもとで描かれている。別に思想など含ませて

はない。だが一番至純な姿で民族の信仰や道徳や情操がしみ出ている。

 型に則るから、絵が模様に入る。その性質を見れば絵であって工芸である。

その美しさを美術から説くことは到底出来ぬ。美を目当てとしたものでもな

く、個人の才が産むものでもないからである。どこの国のものであろうと、

民画は工芸的絵画である。工芸的性質に入らずば、もともと民画とはならぬ。


   十一

 ここで凡ての画家達は将来次のようなことを考えるべき義務が当然起こり

はしまいか。一枚より描けず又描かぬ絵に止めてよいか。美しければ一枚ぎ

りでもよいとも云えるが、同じ美しいものが沢山描けたら尚よくはないか。

若しそうなら美しいものを沢山描けるような道を求めたらどうか。更に進ん

で沢山描かずば、美しくならぬような絵を描く方が正しくはないか。そんな

道が果たして無いものであろうか。美しい絵は、ざらに描けるものでないと

いうかも知れぬが、それは描く道に何か欠陥があると考える方がよくはない

か。若し事情が変われば一枚ぎりの絵というようなことが、却って不思議と

なりはしないか。唐代に有名な「樹下美人」の図がある。どんなに美しくと

も沢山描けた絵であった。又どんなに同じ図柄でも皆美しかった。一枚より

描けない民画などというものはない。こんな現象はどうして現れたか。絵が

工芸的になると、このことが可能になる。

 工芸の本質は用途にある。用途は只一人への用途ではない。どんな人にも

また大勢の人にも役立つことを求めている。工芸は「多」の工芸である。多

は繰り返しを求める。繰り返せる作物、是をこそ始めて正当に工芸品と呼ん

でよい。多く作らずば、又多く作れるような性質が無くば、工芸品とは成り

難い。


   十二

 だから繰り返せる絵は必然工芸的な絵に移る。この繰り返しを容易ならし

める要素は多々あろう。画題の制約はその一つである。制約は不自由ともと

られようが、これがために与えられたものを、却って自由に充分こなせると

も云える。どんな題材でもこなせることこそ寧ろ異変ではないか。それをこ

なし得ない方が当然だとも云えるであろう。近代絵画の欠陥はふしだらに自

由を濫用することにあると思える。題材の賢明な取捨は仕事を安全にし、反

復を容易にする。

 制約は又描写の様式にも見られる。どう描くかを定めることは仕事を安泰

なものに変える。もともと描法が様式に熟さずば反復に遅滞が来よう。この

反復こそ作物を愈々簡潔にし、あらゆる無駄を拭い去ってくれる。反復はこ

こで美を保障する要件とさえなるではないか。

 美しい絵画は何も一枚より出来ない絵画だけに限られているのではない。

沢山描かれることによって却って美しくなる絵画の存在を忘れてはならぬ。

一枚より出来ない絵は、どこか事情に無理があるとも云える。美しい作が素

直に沢山描ける道がないと誰が云い得よう。僅かな絵で世は美しくならない。

僅かな絵を民衆に親しませることは出来ない。絵画はもっと広々と伸々と大

衆の中へ交わってゆかねばならぬ。幸なる哉、工芸の一途はこのことを可能

にさせる。なぜもっと工芸的絵画の価値を重く見ないのであるか。まして美

しい絵画が工芸的なものに見出せるに於いては。


   十三

 想うに画家が単独の絵を描くようになったのは個人主義的近代での出来事

である。それまでは主として挿絵の性質を帯びた、謂わば公な絵画であった。

寺院の壁画や聖像とても、謂わば聖典の挿絵であった。今日のように絵画を

私有する習慣は、挿絵の位置を低下せしめた。だが挿絵のもつ社会的意義は

極めて大きい。それを二義的な画家の仕事と考えてよいであろうか。挿絵の

意義が充分に了解せられたら、ほどなく絵画はその場面を更えるであろう。

その時公の絵画、数の絵画が力を齎らすに違いない。それが又絵画の美を深

める所以になるのを悟るに至るであろう。

 量への求めは必然手描きから版式へと挿絵を誘った。木版や金版の道は、

どんなに挿絵に量を与えたことか。絵は完全に繰り返される絵に入った。だ

から挿絵に於いて絵は益々工芸的性質を加えた。

 ここで版画は絵画を一段と非個人的なものに戻した。手描きでは無数の反

復がこのことを産んだが、版画は刀により、その彫りにより、紙により、更

に摺りによって三段四段と間接にされる。かくして版でなくば現せない美し
                 ナマ
さにまで絵を誘う。ここでは美しさは生ではなく、もう一度自然に戻ってゆ

く。自然に帰れば人間を越える。版の美しさは工芸的美しさである。


   十四

 私はここで読者を納得させるために、よく知れ渡っている六朝の字体を例

に持ち出そう。文字の美しさを知るほどのものは、誰もそれに勝るものの少

ないのを感ずるであろう。だがなぜそれが美しく、又どこが美しいのか。畢

竟見事な工芸的文字だからと説いてよく筋が通る。

 第一それは個人の筆ではない。誰が書いた字ということは出来ぬ。それを

時代の字と呼んでよい。だから当時の凡ての人の字であったとも云える。だ

がなぜ凡ての者の所有になり得たか。なぜ時代を背負う字になり得たか。自

由な個人の書きぶりを越えて文字が法式に入ったからである。その間に多少

の変化はあろう。併し六朝という一定の型がくづれた場合はない。人々はこ

の型に従って文字を書いたのである。個人の自由がこの文字を書かせたので

はない。又どの個人もまちまちに文字を書いたのではない。伝統を生み、そ

れへの忠実な服従がかかる文字を生ませたのである。だから個人の字はあり

得なかった時代だとも云える。

 型であるから筆致に線に約束を守る。誰も特色ある六朝の体を見逃す者は

ない。文字が型に煮つまれば必然模様に近づいてくる。見れば文字というよ

り模様と云った方が妥当である。よく模様に化した故、あの美しさがにじみ

出たと説いてよい。或は六朝の人々は、模様でより字が書けないまでに感能

が進んでいたとも云える。それは工芸的文字の代表的な例に引かれてよい。

 その美しさはどこまでも非個人的である、普遍である。それ故転じて石に

刻まれれば、六朝の風韻は更に高まる。なぜなら不自由な堅い石に、徐々と

鑿をあてることに於いて、文字は更に個人の手書きから離れてくる。そうし

てこれが文字を更に客観的な美しさへと導いてゆく。

 だが是を更に拓本にとるとしよう。文字はその美しさの絶頂に来る。私達

は恐らく拓本に於ける六朝より、もっと美しい六朝を見ることは出来ない。

なぜならここで字体が一段と工芸化され模様化されるからである。

 これ等のことをかいつまんで、次のように云おう。美しい字体は常に工芸

的であると。だから間接な道、版や拓は文字の美しさを守護してくれる。そ

れで字体が自然に戻るからである。若し手書きで美しい文字があるなら次の

ような径路を辿るに違いない。それは数多く書くことによって、無駄が去り

残るべきものだけが残ってくる。その時文字は版に近いまでに型の字体に入

るであろう。かくして模様の域にまで達して了う。それが文字を美しくする。

この要素を欠けば未だ充分に美しい文字となることが出来ぬ。

 私はこれ等の説明が絵を見るためにも役立つことを望んでいる。


   十五

 将来凡ての画家達が当面すべき大きな問題は美と経済との関係であろう。

近代に於いて個人的絵画は異常な価格を求めた。稀有な天才の所産であるか

ら当然なこととも云える。これにつれて画家の存在も特別な人間として取扱

われた。あらゆる自由、時としては奇癖や不徳さえも画家に許された特権の

如く考えられた。併しかかる位置は必然なものであろうか。画家も亦社会人

たることに於いて変わりはない。なぜもっと尋常な人間であってはならない

か。尋常なことが作物を低下せしめるであろうか。近代の絵画の欠点は病的

なことにありはしないか。健康な美が見失われたことにありはしないか。

 同じく作物の異常な価格は、当然な特権である如く考えられる。だがこの

傾きに任せてよいものであろうか。これが順当の状態だと云い切ってよいか。

色々な不都合が起こるではないか。如何に美しくともそれは少数の個人の所

有となるに過ぎぬ。而もそれ等の金持が常に又最上の理解者であると誰が保

障しよう。このことは美と民衆とを引き離す行為に落ちて了う。大衆は天才

の作物とは殆ど没交渉である。高価なものは社会性に乏しい。

 だが美しいものが僅かより生まれず、而も高価に陥ることは如何に人間の

幸福からは遠いであろう。吾々は美を多く生むために更に又一般の所有とす

るために、新しい道を考えねばならぬ。ひとりこの求めに応ずるものは絵画

の工芸化ではないであろうか。なぜなら多と美とを結ばしめるものは美術で

はなく工芸だからである。工芸性と社会性とは一つだとも云える。一つでな

ければ未だ充分工芸的なものとは云えぬ。だから私達は次のような希望に燃

えてよい。

 美が最も厚く多と交わるものは工芸的な作物をおいてはない。私達は美し

い絵画を多く有たねばならぬ。少しより描けない事情は望ましい状態ではな

い。進んでは多く描くことで、美を更に深める道へと出ねばならぬ。そうし

てかかる絵画が自から工芸的な性質を招くことを知ってよい。そうして更に

工芸的性質に於いて、絵画がその機能を最も充たし、かくして最も美しい絵

画に高まることを信じてよい。

 美と工芸性との深い結縁に就いて、将来の画家はもっと反省するところが

なければならぬ。


                   (打ち込み人 K.TANT)

 【所載:『工芸』 73号 昭和12年】
 (出典:新装・柳宗悦選集第8巻『物と美』春秋社 初版1972年)

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